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- 沿革。2023年鴨川&逗子&横浜、猫。
沿革
- 営業曜日の変更となりまして、現在2025年に
至ります。2019年からは週のうち四日を千葉県にて過ごす事になりまして、今までとは異なり、院の営業の曜日が限られております。鍼灸マッサージ院は現在は休診中であります。整骨院としては 温灸のみ行っております。
2007年~2011年と、短い間でありましたが、可視光線治療器を2台使用した治療も行なっておりました。一階はもとより、二階では鍼灸マッサージ院として治療ベッドもありましたから、そこでも行った記憶があります。
太陽カーボン治療とも言います。新宿の大久保に光線治療研究所と医院があり、治療受けに行き、学んだ事もありました。また、機会がありましたらと思います。院の上階にはまだ置いてあります。2019/6月 - 東日本大震災の1週間前の事故鍼灸マッサージ師が、温石療法で使う電気ポットを事故から倒した際に、足の甲~側面に熱湯を浴び、大火傷を負いました。治療に専念の為、これ以降は、施術者一人体制で行うことになりました。二人体制での施術は、2012年~2014年の間の予約制で休日に行った自費治療が最後となりました。2011/3月
- 整骨院を正式に開業。鍼灸マッサージ院も開設。一階を治療スペースに変えました。今までの二階は鍼灸マッサージ院とするも、治療は整骨院と同じ一階にて治療を行いました。
■ 2011年東日本大震災の一週間、鍼灸マッサージ師が、温石療法で使用の沸騰したポットを倒し、足の甲を大火傷してしまう。火傷治療に専念の為、2011年3月から院はひとり体制に。(後に、自費治療の際には、ふたり体制にて行う)
余談ですが、東日本大震災時には、私は午後の診療中(当時は午後2時半~開始でした)。一方、鍼灸マッサージ師は、松葉杖をつきながら皮膚科受診で院近くの亀田病院敷地内で地震に遭う。)2007/10月 - 整骨院の看板を掲げ、部分的に開業を。曜日限定で 二階で予約制のマッサージを行っておりました。入り口は一階で、内階段にて上がってもらっていました。
当時 私は 千葉市内(西千葉)にある整骨院に勤務していたため、曜日限定となっておりました。2007年/2月
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1998年(28歳)で、治療業に転身
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2023年夏の話
2023年夏。(急に思いついて)。
整骨院の営業日ですが、あまりねな暑さと、ひとり旅気分の高まりから、予定(仕事)を考えずに、思うままに車の方面を変え、いすみ市から車で鴨川松島(八岡海岸)へ行き、石拾い(石拾いは、2022年~2023年に興味ありまして。)し、今度は茂原駅へ車で。車を駐車場に停め、外房線(千葉駅乗り換えて)、総武快速 横須賀線にて逗子駅で下車。逗子駅では駅蕎麦に立ち寄ってしまいます。バスにて葉山を通り、横須賀市に入り立石で下車。駐車場脇から立石海岸に降りて石拾いし、再びバスにて逗子駅へ。京急の逗子葉山駅からにしようかと、ここに来るといつも迷うのですが、いつもJRにて横浜へ帰る事を選択してしまいます。逗子駅の構造や雰囲気が、外房の上総一ノ宮駅と似ていて、総武快速 横須賀線の端と端の似通う雰囲気に、どちらも夏を感じるのです。
なお、石は整骨院の待ち合いに 飾っていたのを見られた方も いらっしゃると思いますが、2024年には片付けてしまいました。
鴨川松島と逗子立石の岩石は、同じ時代の物になるのでしょう。そう、このMAPから考えられました。
MAP凡例
青 🟦→ 車使用。
紫 🟪→ 列車(本当は、東京湾をぐるっとまわります)。
緑 🟩→ バス利用。
■一方、二十歳くらいの時の鎌倉ひとり旅では→→北鎌倉駅から円応寺(拝観料が安かったのと、閻魔大王に対峙したく。)→八幡宮境内→滑川→釈迦堂切り通し(当時は通行できていました。)→大町→鎌倉駅。そんなルートが好きでしたが、40歳後半以降は、海辺のルートを一人歩くようになりました。

遠くには丹沢山塊。三角に飛び出た山が相州大山。40歳代前半に大山へは良く行きました。途中からは、日向薬師あたりの風景が気持ち良く 山の中腹をトラバースするルートを歩くように。
また、大山だけでなく、鎌倉や高尾山等にも良く行きました。いわゆる低山ハイクです。
霞んで無ければ正面に富士山が見えるロケーションです。
■写真 縦線ひいた真ん中から ちょっと右側。手前から街の境界までを 横に線をひいて、縦横が交差したあたりに 院がありますが、建物で隠れて 拡大しても見られませんが、そのあたりにあります。ここは、みなとみらい線馬車道駅上にある、横浜市役所からの写真です。院まで、直線距離で1,100m。

猫 (ФωФ)
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■ 28歳までは建築家に憧れていました。しかし、生き急いだせいか足掻けば足掻く程、人生に行き詰まりました。しかし 楽しく学べたり、仕事を行えてはおりました。建築に興味を持ったのも、姿、形 から入りましたから、美術的なものには、今でも好きです。
20歳前半、海外への旅をして自由さを感じまして、この時期がまさに生き生きしていたのでしょう。仕事で 研修、配属、転職 が、思いがけない場所であったのも非常に大きかったと言えます。いわば 日本列島の北から東西へ貫くメインストリームでない場所での 生活スタイルにて、おぼろげに、人生を都市で生きるのだろうという、今までの こうでなければいけない。と いう考えに変化が生じたのです。さらには社会情勢が変わりつつありました。停滞気味な世の中も味わい 苦しみ、八方塞がりになった時期でありました。
こうなったら仕方ない と、Junko.mと考えて、私は治療業に活路を見いだしたのです。その当時に、手にした「マッサージ上級指南(宝島社)」というムック本が面白く(今は手元に残っていませんが、)、興味が湧いていたのと、治療業への はいりぐち が良かったのか、面白さが続きまして今に至っています。回り道した治療の仕事。ヒーリングと言うのでしょうか?癒しや、気 と言うのでしょうか?もしかしたら その素質が眠っていて、商売抜きに施す事が好きだったとは 自分でもわかりませんでした。また、もとから自営を考えていました。しかし、費用が無い状態が続いていましたので、駄目もとで やってみよう。と 36歳の時に横浜で。ですから たいした治療院には仕上がりませんでした。でも、商売は決めた場所で続けるのが良いという商売をやってきた患者さんの意見に そういうものか と 感じて、今の場所で続けております。。
そんな感じですが、あとニヶ月もすれば54歳。早いものです。(2024年師走)
■ 思えばいつも遠くに向かっていたなあ。小学時代も隣町の都賀から通い、小2から転校し中学時代までは隣町の殿台から西千葉駅へバス通学だった。高校時代は千葉駅から新橋駅で地下鉄に乗り換え泉岳寺駅へ。
大学半年は千葉駅から新宿駅にて小田急線に乗り換え鶴巻温泉の先にある東海大学前駅へ。
半年後には、横浜駅隣の相鉄線平沼橋駅から海老名駅へ出て小田急線に乗り換え。
そのような時期を振り返ると、学校へ行く事が ちょっとした旅をしている気分でもありました。
治療業へ転身した翌年の29歳から32歳にかけては再び学生に。横浜の桜木町駅から東急東横線で渋谷駅に出始めたのはカイロプラクティックの学校に一年間と、その後に通った柔道整復師の学校の三年間は、渋谷駅から東急田園都市線に乗り換えて桜新町駅へ。この間、修行、研修先が本牧(横浜市バス)、(野島公園(シーサイドライン)から転院)金沢八景(京急線)、恵比寿(都内)。卒業後も開業するまでの36歳迄はあちらこちらへと移動していました。
落ち着く事がなかったなあと振り返ります。