営業日には 
表に看板が出ております。
2024年春。外房線の上総一ノ宮駅にて(ホーム向こうの公園の桜が綺麗に咲いていましたので)。😁自撮りです(53歳になってから 何故だか自撮りが好きになりました。たぶん 誰も撮してくれないからでしょう。)

施術者ふたり

Members
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                「 Wikipedia 」より引用
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就職氷河期(しゅうしょくひょうがき)は、
日本において1991年(平成3年)のバブル崩壊の経済的な不景気(不況)以降に就職難となった時期のことであり、
就職氷河期に該当する世代は、
一般的には
「1970年(昭和45年)4月2日から1982年(昭和57年)4月1日まで」
に生まれた世代である。

私は1971年2月生まれ。
Junko.mもまた、1971年の(8月)生まれ。

施術者二人とも 学年違いの1971年生まれ。世代で言いますと→
『(ロスジェネ)ロストジェネレーション(失われた)世代(1971年~1982年生まれにあたる)』。
良く耳にする『就職氷河期世代』は、翌1972年~82年生まれを指すらしいです。実際に、景気の悪さは社会人二年目から実感。社会人二年目の1994年8月末にて早々に転職もするが、世の中が変わりつつあり、あぁ、早い転職で、生き急いでしまったなぁ~と
 思ったものです。
そうこうして二十代後半に差し掛かると、生き方をリセットするには今しか無いと感じたのです。頭でっかち、プライドだけは高い というのを変えるには、今までとは異なる何かをゼロから始めて行くしかないと。
勘を頼りに 踏み出したのが、治療業でした。妻は前々から興味はあったため、私もスンナリと。1990年代後半から世代間に格差が生まれつつありました。私らと同じ世代はとても人数が多いです。…私らは『団塊ジュニア(第二次ベビーブーム)(1971年~1974年の間に生まれた世代)』だからです。
バブル景気は、1986年12月から1991年2月までとされています。一般人が景気の良さを実感し始めたのは1988年らしいです。私が高校一年の時からバブルが始まり、終わり(崩壊)は、二十歳の時。(誕生日が2月ですから、二十歳になったあたりで間違いありません)成人式の案内は住民票を移していた横浜で受けとるも、横浜では関係無いため欠席し、ならばと、出生地に一度も訪れた事がなかった為、成人式代わりに行ってみた。都内中央区の明石町。築地市場のとなり町に生まれた病院が有る。5歳くらいまでは、東京郊外(京王線沿線)の調布市ですから、そちらの記憶は少しありますが、病院は もちろんまったく。成人式の二日後(1月17日)だったかには、湾岸戦争勃発(前年にイラクがクウェートに侵攻。この日にイラクに対して多国籍軍が戦争を始めた)。土曜に成人式だったか?翌週月曜に夜中のニュースが始まり、当時23時からTBSで放送のテレビ、「NEWS23」のキャスター、筑紫哲也氏が、「新成人の皆さん おめでとう。ただし、この日に戦争が始まったことを君たちは忘れてはならない。」と、そんな風な話した言葉が、記憶に残ってます。

開院するまで、いろいろな所で修行しました。ただし 長くても1年程と、同じ所で働いてこなかった。仕事から学べるのは10あるうち1つあるか無いかで、学びを10貯めたければ、各治療院にて研修させてもらうしかない。妻も 30歳頃から この道に進んだため、36歳までは同じく修行。この時期は、お金が無い中、ぼんやりと将来を考えつつ、生き生きと過ごしていた時期でありました。

仕事先で、こういう所だとわかるのは3日。3ヶ月居れば、学ぶものが自分に合うかがわかり、身に付く期間。3年は長過ぎww。
自分で行ってみると、研修した本牧の接骨院の院長が言う 7年目のジンクスがある。を実感した。院の経営は7年を越すのがひとつの山。という話。なるほど、当初 来院してくれた患者さんの来院出来る年齢やら患者さんの層が変わるのかとわかった。7年目と、次は10年だったっけ?私も やはり10年目はいろいろ考えた。その院長からは、独りで院を切り盛り出来る範囲にする必要性とか…なんやら あれこれ 教わったなあと思います。
最近、修行は無駄な時間の浪費であり、センスがあればすぐに独立できるという意見があります。その考えには賛成もしています。親方の真似をしているだけなら時間の無駄ですので、真似だけでなくオリジナルな手法を学んで取り入れる必要はあります。私には当時はお金がなく、すぐに開業は無理で、学ぶ楽しさがありました。
今となれば、人生は多少遠回りしてからでも悪くないのではとわかります。行き着く先は遅かれ早かれ一緒の様な気がしますから。
ただし、見る前に跳べ と言う言葉があるように、直感は無視してはなりません。駄目ならやり直せるのが 若さ という時期だからかなぁ と。
気づくと53歳になりました。少し冒険しなくなってきてしまいました。
偉そうに話しますね。f(^^;
松澤宗昭

現在、一名体制で施術しています。住民票は横浜のまま、週四で千葉県に居住。

■柔道整復師(国家資格)

■整体療術師

■タイ伝統療法士
(ハーバルボールマッサージ、トークセンマッサージ、古式マッサージ)
(バンコクにて16日間滞在し学び、当院でも施術を取り入れていました)

■ストーンセラピスト(温石薬石整体)
(当院でも施術を取り入れていました)

さらには、気功院(横浜)羽田空港の赤鳥居を祓った気功家。他にも、鍼灸院(都内)一彩鍼と呼ぶ治療法で 刺さない鍼。ネパール🇳🇵棒灸。なで、治療に役立つ技を学ぶ
(活かせられている。かな?)
ベトナムの治療(美容)で、ディエンチャンもホーチミンで診療所を訪ね、施術を受け 道具も選び持ち帰る。一時、施術に取り入れたりもしていました。

1971年2月東京生まれ。
出生地は中央区明石町。
(1970年生まれの方達と同級生になりまして、同い年の有名人には、俳優の吉岡秀隆さんや、将棋の羽生善治さん、TOKIOの城島茂さん、芸人の岡村隆史さんらがいます)
血液型はO型
調布市で6歳まで過ごし、
小学校より千葉市(現/若葉区)に。高校は工業科の男子校で電子科を専攻。
18歳から横浜でも過ごす。
東海大学で何の気なしに建築科を選び、興味を持ったのは卒業するまで残り1年半を過ぎたあたりから。
はじめから設計事務所を選ぶも、よせば良いのに、日立製作所のグループだから(安易な) & 1985年に開催中二度見たエリアの外れで人気がなかった日立館の建物を設計したのを知り、日立建設設計に入社する運びとなり、東京でのオリエンテーション後、研修先は茨城県日立市へ。日立とは想定していなかったなあ。駅前のオフィスに2ヶ月程の間、日立エンジニアリングの寮に入り、後に配属先は日立工場内の棟へ移るのにあわせ会社の借上げ住居に。企業城下町日立市に一年半過ごす。仕事は、青森六ケ所村核燃料サイクル施設の設計のとりまとめ業務につく。これもまた想定外だ。都内での会議同行や、宮城の女川原発の建築視察に 行ったこともありました。様々な事柄がありました。とても濃い一年半でした。青春があるとしたらこの間が そうだと言えます。同じ借り上げアパート(マンション)に住んだ同僚と、個人で建築コンペに応募した。佳作入賞し、六本木の国際会館にて行われた授賞式に出た。第13回ホクストン建築装飾デザインコンクールで、課題は『ボートハウス』。だいぶ時間がたち、賞金の小切手を換金しに銀行へいくと、主催の会社(ホクストンという)が、倒産したといわれ、賞金は手に入らず。景気は良くない時期を迎えたと知る。

実家の千葉(都賀駅と千葉市動物公園に挟まれた町(小学一年に都内→都賀→みつわ台へと転居))から日立へは、国道51号。千葉都市モノレールに沿い走り、途中 国道51号へ入り、下総台地を進む。成田(飛行機の離陸した真下を抜け)→潮来→鹿嶋(鹿嶋神宮)。ここから茨城県の太平洋側に沿って北上です。→大洋→大洗を進み→那珂湊→阿字ヶ浦→(国営ひたち海浜公園)→国道245号へ。東海村→日立灯台→河原子→日立に至る。
好きなルートでした。)

転職し、
榎本建築設計事務所(千葉) に三年間勤務。(房総半島あちこちをめぐりました。特に幕張(千葉県立幕張総合高等学校新築工事)、大多喜(大多喜町立大多喜小学校校舎改修工事。旧校舎を曳家にてグランドに出し、改修工事中、生徒は旧校舎にて学ぶ。良い経験しました)、他にも 勝浦、千倉、東金、佐倉、へ行く事が多く、会社のある千葉市内長洲と、会社立ち寄りせずに房総各地へ行く時の利便から 千葉市内鎌取にアパート借り一年間住む)。この三年間も濃く過ごしたなあ。

他には、千葉県市川市内や東京広尾にて短期間研修の経験やバイトや無職の期間もありまして(その間に結婚も)、その後

■28歳にて治療業界に転身。

ハンズプラクティスカレッジ(一ヶ年修了)、

日体柔整専門学校(現/日体大医療専門学校)(夜間/三ヶ年卒)

各種治療院で修行、研修、勤務を行う。

千葉県内
(28歳、千葉駅近くにあった 台湾式リフレクソロジーのお店で9ヶ月働きました。鍼灸や整体の学生さんらが同僚で、様々な夢に向かう姿に多大なる刺激を受けました。千葉駅脇にあった「蔵王」というレストランで仕事後に話し込んだ思い出。)
県内で研修したり勤務した 接骨院、整骨院では、 施術管理者や院長職を経験。
接骨院を畳む最後の日も経験しまして、院の責任者と最後業務を終えた院で缶ビールを飲み労う。

都内
(整形外科クリニック(整形外科疾患の処置を知る。歳の近い同資格の同僚とは話し込んだ。彼の好きな場所(多摩川沿いを)を仕事終わり歩きながらや、昼には御飯お代わりを競ったり。)や、マッサージ院)等。

横浜
(本牧(接骨院の いろは を学ぶ。地域医療に貢献するという姿勢やら、怪我の処置やら治療法、何しろ、千葉の台湾式リフレクソロジー店後に研修に入ったのが この本牧の接骨院でしたから、見るもの全てが新鮮でして。)、金沢八景(スパイラルテーピングを学ぶ)、みなとみらい(キネシオテーピング/テスト法を学ぶ)、マッサージ、指圧院にも勤務)。


■36歳、当院開業。

■2019年(48歳)から、リハビリ特化のデイサービスに(月 火)勤務
(千葉県茂原市内)。初めて経験する介護職であります。
こどもの保育園期間だけ いすみ市に居るからこそ 勤務しようと考えていましたが、小学生にあがっても、未だ いすみ市に生活していまして、この先、生活場所を離れるタイミングを決めなければと思っております(早くも2024年半年迎えます)。
デイサービスで行っているのはマッサージもあります。マッサージを行わないのが一週間以上ありますと、久しく業務すると筋肉痛箇所が生じますため、業務用の筋力維持と指関節への持続的な負担、さらには自営で、施す自身の活性バランスの均衡と、
他の世代とのコミュニケーションの必要性からも、勤務を続けています。
50歳を過ぎて、働き方が変わりました。
また、50歳近くになっていたからこそ、千葉県との二拠点生活が出来る気持ちの余裕(金銭の余裕ではない😃)で、行えたのだと思います。
2024年現在、(月)(火)のパート勤務ではありますが、6月で勤めて5年目になります。
ご利用者さんを送迎車を使い 運転も行いますし、茂原まで通勤で車を使います。運転免許を取得したのは平成元年ですが、車を通勤や仕事で使ったのは、社会人になって三年目の1995年~98年の三年間だけでした。いまの車は 必要から、三年間使うつもりで中古の軽自動車を。車にはこだわりも何も感じないから何でも良いと。気づくと この車は、六年以上乗っています。一昨年前の夏、無理な運転から左側面にトラックと擦ったさいの凹みが 凄い!。それを見ると皆 踊ろく。そろそろ駄目かな?
昔話→私が小学二年の時、今は亡き(2020年没)母が事故を起こし、買って二年目の日産 マーチが廃車に、それ以降、私が知るには十代、二十代は家に車は使わないでいた。そうそう、救急車に乗ったのも その事故の時だった。事故現場は、西千葉駅近くの「呪いの松」。書くのも恐ろしい。「呪いの松」あたりの祠と松並木は、同級生とバスと電車と帰路に別れる場所で、遊び場でもありました。なんで そんなところで遊んでいたのか?といえば、→ 小学二年の私は、一年だけ通った実家地元の小学校から、千葉大学の中にある附属の小学校に転校した時であり、西千葉駅は学校への最寄り。そこから大学敷地内を延々と(こどもの感覚で)歩く。隣町の殿台町(バス停へは、こどもの感覚で ひと山越える)から西千葉駅行きのバスで通学。
何が言いたいかって?→車は苦手だ(笑)。それにつきる。
松澤順子(旧姓/芝崎)

2019年3月に千葉県へ住民票を移し 居住の為、当院での施術はしていません。

■はり師 
■きゅう師  
(鍼灸師)
■あん摩マッサージ指圧師
(国家資格)

■フーレセラピスト

■ストーンセラピスト

■タイ伝統療法士
(ハーバルボールマッサージ、トークセン、古式マッサージ)

田中式の温灸 あん摩 、
長野式の鍼 の講習を
各一ヶ年づつ 受講。
松澤宗昭と共に、
気功院や鍼灸院で学んだり、
ネパール棒灸の講習 
も受ける。

1971年8月千葉県生まれ。
出生地も育ちも 夷隅町(現/いすみ市)
血液型はA型
千葉経済短大卒。
京葉銀行(勝浦/銀行員)、
郵政省(茂原/郵便局 公務員)を経て、
■30歳にて治療業界に転身。
東洋鍼灸専門学校(夜間/三ヶ年卒)

鍼灸/指圧 マッサージ院に勤務
横浜(天王町 等)、千葉県内、都内。

■36歳で 鍼灸マッサージ院(まつざわ整骨院と併設)を開設。
●2019年からは、休院中です。

■2019年からは、
訪問の鍼灸マッサージ院に勤務し、業務委託の形態で行っております(茂原市内にて)。
Junko.mの社会人一年目の勤務地。
千葉県勝浦市。京葉銀行 勝浦支店勤務でした。遠見岬神社の階段口に支店は今でもあります。
紫丸 → JR外房線 勝浦駅
緑丸 → 今は名前が少し違いますが、三日月ホテル。
Muneaki.mの社会人一年目の記憶。1993年~94年。
佐野元春のガラスのジェネレーションは、連れられて都内へ出張に行った帰り、上野駅からのスーパーひたちに乗ると、上司がビールとつまみを買ってきてくれて、上司は日立に着く前に途中下車。私は日立駅まで。ビールを開けると、このメロディが脳内に流れたものです。コマーシャルの影響です。
書籍では、沢木耕太郎の深夜特急には旅の影響を受けた。
この時代はMr.Children、福山雅治のメロディを良く聴いた。そんな時代でした。
ずいぶんと前になりますが、そんなに昔の事には思えません。名作?!は色褪せない?
1993年~94年、出張帰りのビール(ロング缶)での思い出。

コマーシャルで ガラスのジェネレーションが使われていました。

YouTubeでも探してみて下さい。今でも 見ると 当時を思い出します。
サッポロ新吟仕込生ビールのコマーシャル。1993年2月~。
東山紀之出演。
2025年。再び、家族で横浜にて生活を考えていますが、少しだけ まだ外房にも継続して置きたいものもあり、どちらにでも動けるように含みを持っておきたいと思っています。