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- 旅のはなし。アメリカ、香港。
旅は良いなぁ

開院翌年~の、
2008年~2013年で行った旅
2022年以降の子どもと泊まりの旅も。■翌年の【 2008年】~【 2013年 】まで 、短い外国旅行や治療研修を兼ねての旅を 合わせると90日間の海外の旅を行いました。
全て松澤順子とともにで、成田空港発着です。旅の順に国を書いていきます。
そのまえに、、
3歳まで子供は横浜に住んでいましたから、子供と訪れる事が出来るエリアは、例えば西は 藤沢 江ノ島 大船 あたり。東は 川崎 蒲田 品川 あたり。時には上野 六本木 新宿へ訪ねるも なかなか遠方へは難しかったです。
千葉県に こどもが転居した後は、横浜の家に泊まり、例えば 神奈川県。川崎 多摩区にある 藤子.F.不二夫ミュージアムやらには行けていましたが、千葉県では、鴨川以南の千倉には良く訪れるも、さらに館山 へはいすみ市からの日帰りでは、滞在を満喫するには難しく、そのような家以外の宿に泊まらなければ行けない場所への出掛けは 幼少期の こどもの性格から難しかったです。何しろ、いまでもそうですが、手間がかかりすぎて(´▽`)。
そうこうして、子供が少し落ち着いてきた(小学生になった) 2022年から、学校休みの時期を利用して、千葉県や神奈川県以外へ泊まりで出掛けられる様になりました。
2022年以前の二年間は、新型コロナウイルスの感染が拡がっていた時期でした。
2020年2月から あれよあれよと。ピークは2021年4月に緊急事態宣言がありまして、この年いっぱい迄は マスク生活だったような。
こどもが四歳になる直前から六歳前にかけてにあたります。
おかげさまで、家族皆、新型コロナウイルスには感染しませんでした。
そのような時期を経て、2022年。旅も おおでを振って行けるようになりました。
★ こどもが楽しめる 施設を訪れることを第一にした 安心安全な旅行を、2022年から。
↓
2022年
■吉祥寺(東京)に連泊。
三鷹の森ジブリ美術館
井の頭恩賜公園内 遊園地
等。大多喜⇔東京駅 高速バス
2023年
■清水(静岡)に連泊。蘇我駅 前泊
百町森(静岡)
ちびまる子ちゃんランド(清水)
駿府城 さくら祭り等
東京駅⇔静岡駅 東海道新幹線
■舞浜(ディズニーリゾート)の新浦安のベイエリアに泊。蘇我にて前泊。
一日目は、『ディズニーランド』(こども初)
新浦安のベイエリアにて泊まり、翌日 気力あればディズニーシーを考えていた
(連日でランドとシーを予約を取っていた)
二日目、行ける気力が有るとの事で、朝食食べて『ディズニーシー』(こども初)へ。
■神戸(兵庫)の新長田に三泊。
横浜の家に前泊。
有馬温泉から六甲山。
Rokko森の音ミュージアム
神戸アンパンマンミュージアム
すみっコぐらし展(神戸大丸)
須磨 等。
新横浜駅⇒神戸⇒品川駅。東海道/山陽新幹線
2024年
■名古屋(愛知)三泊。
千葉駅 前泊。
東京駅⇔名古屋駅 東海道新幹線
名古屋アンパンマンミュージアム
ナガシマスパーランド(三重県)
リトルワールド(岐阜県境) 等。
■山形(山形)泊、仙台(宮城)連泊。
上野駅 前泊。
上野駅⇒山形駅 山形新幹線
天童
山形⇒蔵王⇒仙台 レンタカーで、蔵王お釜→
→仙台万華鏡美術館(秋保温泉)→青葉城址。
仙台アンパンマンミュージアム、
あつまれどうぶつの森×仙台うみの杜水族館 等。仙台駅⇒東京駅 東北新幹線
■東京 多摩センター
『サンリオピューロランド』
千葉駅隣接の宿に連泊し、初めて行く サンリオピューロランド。
JR(外房線、総武線) 都営新宿線 京王線を使っての往復。
■東京 葛西、上野
魔法の文学館(江戸川区角野栄子児童文学館) 葛西
東京国立博物館『はにわ展』上野
蘇我(千葉市)泊。
2025年
■ 京成成田駅前に連泊。
DIC川村記念美術館 / 佐倉市
房総のむら / 印旛郡栄町
成田山新勝寺 成田空港 / 成田市 等(千葉市内)。
こどもがうまれる前の数年にあたる、
2013年~2015年は 国内に出掛け、
記憶有るなかでは、
御朱印や仏像にはまっていた時期がありまして、『京都、そして 奈良』翌年には、
『神戸から、奈良、そして京都』へ。
みたい仏像は 方々 みた。悔いはない。
他にも、
夜中に大雪が降り積もるも、『甲府(山梨県)』へ向かった。身延山やら昇仙峡行くも積雪がすごい。帰り、道路の凍結の影響にて一日延泊する事になった。
『岡山、倉敷』へも向かう。
甲府 岡山は、用事も兼ねてでした。
今が2024年ですから、10年~12、13年も前の旅になります。
■
ようやく、海外の旅の話。
(2008年から)
■
①澳門🇲🇴、香港🇭🇰、
②インド🇮🇳、
③マレーシア🇲🇾、
④🇷🇺→トルコ🇹🇷→🇷🇺、
⑤ベトナム🇻🇳、
⑥ベトナム🇻🇳、
⑦🇲🇾→トルコ🇹🇷→🇲🇾、
⑧🇹🇭→カンボジア🇰🇭→タイ🇹🇭、
⑨タイ🇹🇭(タイの伝統療法を学ぶため、計16日間の私たちにしては 長い旅に)、
⑩ベトナム🇻🇳
⑪🇹🇷→スペイン🇪🇸→トルコ🇹🇷。
余談→それ以前(1993年~2001年迄)は、
●アメリカ🇺🇸→カナダ🇨🇦→🇺🇸、
●香港🇬🇧(唯一の海外ひとり旅。1993年)、
●香港🇬🇧→澳門🇵🇹→香港、
●中国🇨🇳(社員旅行にて)
上記の1993年アメリカの旅と、(当時の)香港一人旅 は、20歳始めという若さ故に、感じるものが多い旅をしました。
どちらも小さなバックひとつ持って。
アメリカ
1993年、1ドルが111円くらいだったころの話。
成田→サンフランシスコ(2泊)(着いたときから雨。夜、チャイナタウンで夕飯を食べたのち、街角から宿へ乗ったケーブルカーが大雨で坂を登れず、途中で降ろされ、傘もささずに歩いた為、履いてきていた古い革靴が駄目になり、翌日、カリフォルニア大バークレー校内にてコンバースのスニーカーを買い、旅の間、それを履く事になりました。
深夜、宿から道路を見下ろすと、若者がローラースケートで数人走り去り、アメリカにいるという実感が湧いたものです。
サンフランシスコ→ロサンゼルス(2泊)
前年にロス暴動(1992年)がありました。宿の廻りもガソリンスタンド等焼き討ちされ そのままになっています。夕刻のバスの車窓からダウンタウンの路上ではドラム缶に木をくべて暖をとるのを何ヵ所か見かけ、映画のワンシーンのよう。
リトルトウキョウに行けば、何かあると思い向かうも、閑散としていました。ただ、通りには、スペースシャトルのチャレンジャー号爆発(1986年)で命を落とした日系人を悼むモニュメントを見て日系人は他のアジア人よりも境界の緩いコミュニティを作っているのだと感じました。夜、ホテルから高速の高架先に見える地元のレストランへ 観光旅に疑問を持つ同級生と2人だけで向かう。(他の皆は夜のディズニーランドへ行きましたが、それに反発したのであります。) 地元の人だらけのなか、カウンターに座った気がする。ステーキを食べ 共に満足。帰国後、しばらくして怖さ知らずの行為だったと振り返ります。
早朝、散歩していたLA現代美術館前にて初老のホームレスに威嚇されチップをねだられる。
この日は、気乗りせずも、それなりに楽しんだ風を装い、ユニバーサルスタジオへ行く。雨降り晴天目まぐるしい。ポンチョ着て、被り物をして歩くと 現地の人から陽気な奴だと見られ キャストと写真と写ったりと、それなりに楽しんだ。記憶にあるのはジョーズとバッグ ドラフトのアトラクションのみ。
LA→ラスベガス→グランドキャニオン(昼、風が冷たい。感動も感激もしない。)→ラスベガス
夜、カジノ フラミンゴ。壮大なショッピングアーケード。天井には空が映し出される。迷子になる広さに人混み。誰も自分を気にもせず。ふわりと浮かんだ感覚で人の流れに浮かんだ。
ラスベガス→(夜間飛行で)シカゴ(未明、外はまだ暗い。雪がつもっている。高度を下げていく機内から見えるシカゴの住宅街の街灯の灯り。静寂さ。)
空港は綺麗で壮大。香りが良い。アメリカだと ここでも感じることになる。ターミナルから他の待機している飛行機の翼に積もる雪を放水車で吹き流しているのをみつつ、Chicagoと書かれたキャップを買ったりするも、空港内で長い時間過ごすこととなり、もしかしたら、大雪で飛行機が飛ぶのがおくれていたのかもしれません。
ここで被っていたキャップ(帽子)をChicagoに変え、その後はそれを被る。もちろんNYでもです。おのぼりさん風?に見えたかも
シカゴ→バファロー→(陸路国境越え)カナダ側ナイアガラの滝(夕)(泊)(大雪の降り積もるナイアガラフォールズ。寒いという感覚は無く、ただ凄いと。雪深く、当然、歩く人は居ない。ホテルの部屋からの景色は滝側でなく、反対側。雪明かりでまだ見えたのは 私にはクローズしている小さな遊園地?雪が積りそれも良く。
翌日、バッファロー→シカゴからワシントン(ワシントンでは、飛行機に乗り遅れて最終便にてNYへ。離陸する飛行機の姿を搭乗口から眺めるも、どうしようもなく、しかし絶望感は無かったです。結局は、最終便までロビーに座っているしかありませんで、座るのみ。ワシントン→ニューヨークに着いた。
深夜のNYの不気味さ。バスが信号で止まると、何か起きるのでは?と思わせる雰囲気。→(私の荷物がロストバゲージ(貴重品はバックにはなし。使い捨てカメラ(写るんです)があるくらい。現金やトラベラーズチェックは、パスポートや航空券と同様にジャンパー内ポケットに、、)というので、私は楽観し、むしろハプニングを楽しく思ったと思います。宿へ荷物の配達の行き違いがある可能性があるとのアドバイスから荷物は帰るときに受けとる事(ワシントンから来たラガーディア空港から 帰りに使用するJFK空港に荷物は移して貰うことに)にしました。そう手続きできたのは、数ブロック先に、トラブル等を受け付けるオフィスがあるとの事を「地球の歩き方」から誰かが見たか言ったかで、それにすがり相談出来ました。(日本人が居たのか記憶には無いが、これだけの複雑なやり取りは日本語で無ければ、伝えられず、私も理解出来なかっただろうなあ))、NY滞在中は手ぶら。身軽で悪くない。)ニューヨーク(3泊)
皆で初NY地下鉄で何故かクイーンズ地区にて下車し対岸のマンハッタン島を眺めました(遠すぎましたが)。NYの地下鉄をとりあえず体験しようと乗ったような気がしますし、マンハッタンを外から見てみたいと思ったのだと思います。
バスの車窓からは映画「ブラックレイン(1998年)」のNYでのバイクシーンのロケ地を眺め 一人悦に入いる。その後は、先述の同級生と またも2人で行動。ヤンキースタジアムのあるエリアや、黒人街のハーレム エリアやらをめぐる。ハーレムの地元の服屋でパーカーを買う。ロストバゲージ中にて、せめて服を一枚でも取り替えたかった。苦にならず歩いた。破れたジャンパーを着ていたからか、若すぎたからか、手ぶらだったから?地元民になった気がする位に誰の視線も無くなる。コダックのインスタントカメラを売店で買い、ジャンパーポケットに入れていた程度でしたから。
コロンビア大辺りで地下鉄に乗り宿へ戻りました。
単独行動もしました。ルーズベルト島へ ゴンドラリフトにて渡ってみたり、旧パンナムビル(1991年~92年頃に(現)メットライフビルに名前を変えてたため、パンナムのロゴは見れなかったはず)のビル見たさ(小学校見ていたアメリカ横断ウルトラクイズの影響、、)に夕刻のミッドタウンを歩き、紙パックのオレンジジュースとリンゴ一個を買い、紙袋を持ちながら、グランドセントラル駅で行き交う人をずっと眺めていました。リンゴは、熱をだし、宿で寝ていたそんなに親しくない同級生にあげることになる)。
ヘリコプターで自由の女神を眺めました。また、私は行かなかったのですが、ワールドトレードセンタービルへ向かった同級生もいました。皆でエンパイアステートビルディングから9.11テロで崩壊することになるワールドトレードセンタービルは眺めはしましたが。
→寒いNY。ロストバゲージだった荷物は受け取りました。要らない気もしましたが、カメラのフィルム(写るんです)があったので受けとる。帰りはロサンゼルスへ。
ちょっとだけLAの空港外に出た。快晴。暖かい。
LAから成田へ
このタイミングだったか、WTCビル地下駐車場にて爆発事件のニュースを空港のテレビにて知る。8年後の9.11テロのカウントダウンとされる事件です。
無事帰国。
■ 1993年7月14日18時成田発UA便で向かった【香港】🇬🇧 への 一人旅の話しは、、、詳しくは、またの機会に。
当時は1香港ドルが、14円くらいの頃。
行き帰りの話しならば簡単に書いてみます。
↓
旅に出掛けたきっかけは、日立製作所の創立記念日がありまして、土日含めて三連休と休みが出来た事にあわせました。
二泊三日の短い旅を決めました。
日立に住んでいたため、日立からは→我孫子→成田→成田空港と電車にて夜便に乗れるように向かいました。
宿は決めていないで。
バックはひとつ(斜めがけバックにて、預ける事せず)。
着替え(シャツ、パンツ、靴下を各一枚)に歯磨き、髭剃り(電動の携帯)ペットボトル一本、カロリーメイト一箱、宿の候補を「地球の歩き方」からちぎったものをつめた。
ガイドブックは無し。
読む本も無し。
財布とパスポートは身につけて。
あと、サングラスに、ワイドな写真が撮れる「写るんです」を。
【写真どこかに掲載します。確か現存は二枚だけ(三枚あった!)。(30年以上も前の写真になります)】
読み物から影響も受けていた。
アメリカは、藤原新也「アメリカ日記」。
香港は、沢木耕太郎「地図を燃やす」。
音楽では、佐野元春。アメリカで、香港で、頭の中に流れてきた。
さあ、ここから 旅が始まる。
沢木耕太郎氏の「地図を燃やす」や、「深夜特急」の香港のシーンの様な、ハラハラ、ドキドキ、ワクワクを、たった二泊三日に凝縮してきた感がありました。
やはり、別の機会に話したい。
帰りは 入り口扉の近くの席になる。スチュワーデスさん(今で言うキャビンアテンダント(CA)さん)が座る席の真向かい。この席に座ったのもこの先は無し。
どっぷり疲れはて、全て寝て帰ったため、飲み物やら機内食は飲まず食わず。声かけられた?かけられなかった?
帰りも行きと同じく。
何食わぬ顔して、日立エンジニアリングの寮に戻り、翌日 研修先の日立駅前のオフィスに向かうも、香港の熱は冷めず フワフワな感じがしていたのを覚えています。
その年の暮れから翌年始めにかけて、同僚と香港🇬🇧、澳門🇵🇹へ。
その同僚とは、夜中、日立から車。京都で建築みて、龍安寺の石庭で過ごした後、大阪でも建築見学向かう途中で車のタイヤがパンク。奈良の山中でバッテリーが上り暫し休む。帰れないと三重の四日市で泊まり、日立の帰路に。暑い夏の強行軍でした。
また、1994年年末に🇳🇵ネパールへ行こうと計画するも、直前に、航空券のキャンセルが無く、行けなくなった事も。
松澤順子とは
★1999年 🇭🇰→澳門🇵🇹→香港🇭🇰、
★2001年 台湾🇹🇼
を旅しました。
旅は良いものです。
旅すると自分のルーツについて考えたりもします。
私の父方は長野県であり、父の出身は同県の小川村。鬼無里と大町と白馬の間の何処かあたりで、記憶にない乳児期と、高校生(小川村へ行ったかは記憶無し)に法事で。中学生の時に、家族で長野→戸隠→父出生地にて泊まった(記憶有り)→大町と行き帰りは何処でどうしたかは記憶無し。
母方は両親とも、東京大空襲にて亡くなり、実母の妹の家族(東京の深川(江東区))にて育てられたと言う。母が一歳半の頃の話。
私が48~49歳の時に、母からそう聞いた。父も追って話を聞かされたそうで初耳だったと。
実母の妹(育ての母)の出身が富山県と聞くので、実母も同じかと推測できる。実父の出身は不明。育ての父は新潟県の出身。
姉妹で、東京の下町にて暮らしていたのだろうか?
母は新型コロナウイルス感染拡大が収まりつつあった2020年9月に亡くなったため、真相は知ること無く。
母の死因は癌。父も癌を患うも健康体。父方両親ともに癌が死因。
私も癌体質はあるでしょう。気付けば50歳代。自営業であるため、個人の判断で定期的な健康診断を受けなければと思ってあおます。る
